production note
本作の構想はいつ頃からあったのですか?
シノプシス(あらすじ)レベルのストーリーを起こしたのが、大体7〜8年前だから、2000年くらいに構想自体はあった。ネットシネマでいくつか企画を考えたうちの1本だったんだけど、当時はこの話の内容が全く理解されなかったね。今の方がこの作品の理解者が増えているけれど、この話のテーマとしては、2000年がリアルタイムだったと思う。2000年〜2001年はバブル崩壊後、いちばん不景気な時だから。でも、その当時はこの話がリアルタイム過ぎて、当事者過ぎて、理解されなかったんだろうね。

当時は『サイマルティ二アス☆アドバンス』(=同時進行の意味)というタイトルだったと聞きましたが…
「うん、その当時に世界的には同時進行で複数のストーリーが進んでいく、いわゆるマルチプロットという考え方、ストーリーの組み方が出始めていた頃で。例えば、『マグノリア』、『パルプフィクション』あたりは、その走りだよね。こういった考え方は、インターネットの出現によるところが大きくて…。例えば、インターネットだと、同じ人でもハンドルネームを使い分けて、別々のウィンドウで違うチャットに参加していたり、クリックすれば全然違うページにもすぐに飛べたり、同時に色んな情報を追っているじゃない? インターネットの出現によって、"ひとつの大きなストーリーが流れる"という感覚が信じられなくなって、"いくつものストーリーが同時に動く"という感覚の方が、時代としても自然な感じがするのね。

本作がマルチプロットであることは必然だ、と?
僕の中で、すごく考えてマルチプロットにしたわけではないけれど、マルチプロットという考え方が自然と感覚的に信じられたのはあるね。この映画の特徴でもあるんだけど、今の時代を"みんなが信じれる大きなひとつの物語がない時代"だなあと僕は思っていて…。同じ夢を持って、同じように頑張っていた高度経済成長期という時代があったわけだけど、やっぱり今ってそういう時代じゃないし、みんなで共通する夢がほぼないに等しい。それが今回の映画のストーリーになったんだ。映画とはこうあるべきという人もいるし、僕もシネフィルの一人だけれども、ひとつのストーリーが変化していく構造だけが必ずしも映画じゃないと思っている。なぜなら、人生のあり方が昔と違うんだもの。

本作の演出手法も、今までにないことをたくさん取り入れていますよね? これも、時代を反映させているんですか?
映画はすごく革新的なメディアだったのに、いつのまにか、「映画ってこうだよね」という、すごく保守的なものになっちゃって…。「映画=古典」みたいな。失敗してもいいから意外と新しいことやってる方がいいと僕は思うんだよ。そのためには壊すことも必要だし、今回の作品はパンクだし。例えば今回で言うと、ポップアップが映画の途中で何回か出るんだけど、こういう場合、映画ならインサートで寄りのショットを撮る瞬間で、これはいわゆる説明する画だよね。「こうやってなにか盗んでます。盗んでいるものは何でしょう?」って寄りで撮るんだけど、シームレスにポップアップで表現したっていいじゃん? 時間軸で説明的なカットを、わざわざ入れるほうがすごく古典的だと感じるし、今回の表現手法でネット的な考え方がかなり前提になっているけれど、映画的技法を疑ってみたって話。説明が必要なものはポップアップで、強調の場合は、わざとブローアップしてインサートで表現してるんだ。

インターネットの出現が様々なものの在り方を変えた、と?
そう。インターネットがなかった時代は幼稚園、小、中、高校になっていく間に人生が末広りにどんどん身近な景色から広がっていく。だから、昔の映画は主人公が徐々に世界を広げて成長していく。昔ならば、自分の夢もちょっとずつ大きくなっていけたし、トライできた。自分の成長と世の中の見え方が、シンクロしてたんだよね。その一方で、今は情報洪水で、いきなり世の中が見えるだけ見えてしまう。自分の成長していく人生と見える景色のバランスが悪いんだよね。例えば、ギターを始めた奴がいて、同じクラスの奴もギターをやっててそいつには負けないって練習してたら、他のクラスでも音楽やりたい奴がいて、バンド組んで学園祭で発表して…ってステップを踏めても、今はインターネットで世界中からいくらでも自分よりギターが上手い奴が見つかる。しかも、そのレベルでもプロにはなれていないという現実を知る。

 …。
つまり、今の時代は、何をやるでもトライする前から"見え過ぎている"。トライしようとしてもいきなり萎えるし、"それでもやるんだ!"と信じるのってすごく大変なことだと思うんだよ。「自分探しはもういい」なんて言われるけど、こんな時代だからこそ"せざるを得ない"。"こんな世の中で自分は何が出来るんだろう?"と考えざるを得ないんだ。
みんなが信じられるひとつの大きな物語が崩壊しているってことは、価値観も多様化してるわけで、なにかやる意味を見いだすのがすごく難しくなっているし、情報洪水の時代で、やる前から情報があり過ぎて、ある程度先が想像出来てしまうし、そりゃ大きな夢が持てなくなるよね。良いか悪いかは難しいけど、"自分らしく"というのも、どうしても小さくなってしまう。そうならざるを得ない。

本作のコピーが「small life is beautiful!!(しょっぱい人生は美しい)」ということにも今の話は繋がってきますよね。
でも、やっぱり昔からどの時代の人でも「幸せになりたい」という気持ちや「生きてる意味を見いだしたい」という思いは変わらないんだよ。幸せになるための手段が違うだけで。昔であれば、幸せになるために神に祈る時代があって、そのあと、ガンジーが唱えた「PAECE, LOVE and UNDERSTANDING」(平和と愛と理解)を大事にするヒューマニズムの台頭がある。それが今だと、お金とかすごく即物的なものしか信じられなくなっているんだろうね。

そんな時代の中でリリースする作品のタイトルに「PAECE, LOVE and UNDERSTANDING」を入れたのはなぜですか?
元は『サイマルティニアンスアドバンス』という同時進行という意味のタイトルにしてたけど、この映画がなにをやりたいのか、わからない人たちが多かった時に、テーマややりたいことをもっと伝えなきゃいけないと思って、タイトルそのものを言いたいメッセージに変えたんだ。『同時進行』は、あくまでフレームの話で、メッセージではないからね。
それで、今のタイトルになったんだけれども、おもしろいのは、『PEACE』も『LOVE』も『UNDERSTANDING』も基本的には、他者がいて初めて成り立つ言葉なんだよね。自己愛という意味では、『LOVE』は存在するけど、当時言われてたLOVEの意味って、人との繋がりにおけるLOVEなはず。 昔は、「幸せ」を、人との間で探すから『PEACE』や『LOVE』が存在したけど、今みたいに、個の中で「幸せ」を探していくと、どんだけ探しても『PEACE』とか『LOVE』とか見当たらなくて…。今の時代だと、「幸せになる=自分的な欲求を満たす」ことになっていて、やっぱり、今は個の時代なんだと思った。

なるほど。
LOVE&PEACEの反対はSEX&VIOLENCEになるけれども、個の時代に生きる人たちは、「底が抜けている」って表現を宮台真司さんはしているけれども、同じ線上に両面を持っている。例えば、(本作の劇中で)女子高生が頭に来たからコンビニに火をつけるのも、その後に「彼氏とラブラブでいられますように?」と願うのも、彼女にとっては「幸せになりたい=自分の欲求を満たしたい」という同じ域の話だと思うんだ。それに対して無自覚なのが問題というか、キチガイになって犯罪を犯してしまうのではなく、正気の沙汰でやってることが怖いというかね…。「HAPPYになるためだったら何でもいいんかい!」って話だよ。

現代の「幸せ」が「欲求を満たす」ことに限りなく同じになっているというのはわかる気がします。
人のことを考えるよりも、まず自分が幸せになりたい。かと言って、PEACE,LOVE and UNDERSTANDINGを通った後の世代だから、そういうことも頭ではわかってるし、なんでも好き勝手にSEX&VIOLENCEに生きているわけでもなく、愛や平和や理解は大事だと思っているわけじゃない? でも、それらを信じるためには、今の人たちって、いっぱい乗り越えなきゃいけないものがある気がしてるんだよ。ただ「PEACEが大事だよね、LOVEが大事だよね」って言われても、どこか素直に信じられない部分が存在すると僕は思うし…。

この映画は、ロストジェネレーションに特に見てほしいとのことですが、手放しで愛や平和や理解を信じられなくなっている世代がこの世代?
そう。今25歳〜35歳くらいまでの世代がいちばんこの映画を理解できると思うんだけど、「失われた10年」と言われているように、日本の高度経済成長が終わったっていう戦後ずっと続いてた時代が途切れた世代だし、デジタルとアナログだったり、あらゆる狭間にいる世代と言えるんじゃないかな。いろんな全体の問題を背負っている世代…、ロスジェネって言われるのは、いろんな負が集まっちゃったからだと思うんだよ。そこがポイントかもしれない。ロスジェネの人たちに問題があるというよりも、全体の問題を一心に受けてる、時代の犠牲者かもしれないよね。

ニートも時代の犠牲者ですか?
うーん、これも難しいけど…。引きこもりはダメだって言うけど、引きこもりたい理由があるんじゃないか、と。雨宮処凛さんの本に「看板出して文句を言えば、引きこもりから立てこもりに昇格する」って書いてあったんだけど、確かにその通りなんだよ。社会にたいして「NO!」を言っている存在でもあるから。人によっては甘やかされてるだけだよって言う人もいるかもしれないけど、ニートの親世代が物質的な豊かさに走り過ぎた反作用が出てるのかもしれないし、「布置」という考え方から俯瞰で見たら、「ニートが悪い」という論理から離れられるよね。ニートの問題もその世代の問題として捉えるのではなく、社会の問題であると考えないと。だって、ニートも社会に含まれているんだから。

問題として、切り離せないということですね。
僕たちは社会の中にいるわけで酒鬼薔薇事件も「酒鬼薔薇君を社会から切りゃいいのか」という話なんだよ。あの事件は非常に辛い事件だし、自分の身体が痛んでいるかのように、僕自身も含め人類全体が痛む様な事件ですよ。あの事件を「僕たちの一部が痛んでる、自分の中に問題がある」と捕らえないと、問題がある人は切ればいいという発想が非常に危ない。この発想は消費であり隔離であり、セグメントしてしまうと社会が循環していかないのが問題だよね。

確かに、消費や隔離だと、本当の際限が来るまでキリがないですね。
消費しきった先に何があるかという想像をやっぱりしていかないとだし、想像するためにはシステムが循環していかないと。「犯罪者は切れ」というだけの発想だったり、「老人になったら使えない」という発想だったりが、大問題なんだよね。「切ったら、ゴミはどこにいくの? でも、そのゴミは溜まってるんだよ? それは社会にどういう影響を及ぼしているの?」って。でも、「関係ねえよ」って言うんだろうし、直接的に関係のないものや見えないものはなかなかピンと来ないし、どうやって解決すればいいってぱっと分かるようなことでもないし、それはそれで解決するのは難しい。目をつぶってしまう気持ちもわかるし、僕もすぐに今言ったような問題を解決できるかというとそりゃ悩む。でも、「なにかがおかしい」という人たちが出始めているから、最近ではLOHASという流行があったり、地球を守ろうという動きが強かったりするんだと思うけど…。

先ほどの狭間という話に戻ると、本作の舞台は国道16号線沿いで、都会と田舎の狭間が舞台になっていますが?
国道16号線沿いで相模原が主な舞台になっているんだけれども、文化の断層地と呼ばれていて、都会への憧れと田舎の土着性が同時に存在してる場所なんだよ。16号線沿いにはメガストアが立ち並んで、畑が広がっているすぐ傍でニュータウンが出来て、そこに同じような階層の人たちがこぞって集まってきて、同じくらいの収入だから、生活のレベル、パターンも似ていて…。街の在り方が偏っているし、文化が何も根付いてない地で、都会への橋渡し的な場所になっていて…すごくカオティックなことが起きていると思うんだ。

この映画がもつ独特の雰囲気はこの"狭間"感なんでしょうか?
心理学にも「布置」って言葉があるんだけれども、何かしら問題が"溜まる"場所があるんだって。例えば風俗やパチンコもない、人間のネガティブな膿みを出す場がない街には、コンクリートの上に膿みが溜まっていくんだな。僕もニュータウン出身だけど、僕らの世代が就職や進学で外に出て行った後、学校が荒れ放題だったらしくて、街が一回死んだんだよ。でも、街にはサイクルがあって、また再生しているらしいんだけど、まあそこはニュータウンだから、100年くらいの単位で見ないと今後どうなっていくのかは誰もわからないけどね。

街も人も問題を社会に含みながら進んでいかないと危ない、と?
「ロストジェネレーションが抱えている痛みを見ないフリするんじゃねーぞ! 無視するんじゃねーぞ!」と、見たくないかもしれないけど、見てもらうぞっていうね…。そこを知らん顔されるのが非常に気に食わない。根性出して頑張ってやるのは大事だけど、時代が変わって色んなことが頑張れば済むってことでもなくなってるし、最近の純愛ブームやスポ根ブームがそうかもしれないけど、「こうしたら幸せになれますよ」って安易な方向に持っていかれると、みんながそれで満足なのかもギモン。それを信じるためには、考えなきゃいけないこと、取り組まないといけないことがあるはず。

このタイトルは本気の問いかけ半分と皮肉半分が混じってるということですか?
本作を観てもらったらわかると思うんだけど、僕は現代の批判をしたいわけじゃなく、「現状を自覚しましょう、直視しましょう。それを自覚した上で、どうしますか?」という問いかけがしたいわけで、どちらかと言えばポジティブなんだよ。登場人物ひとりひとりは、この時代なりに一生懸命あがいている人たちだし、それぞれやってることに悪気はないよね。その愚かさも含めて、人間は愛らしい存在だなと思うし。今回のコピーを『small life is beautiful!』にしたのもそういうこと。

日本の現状を映画にしよう、と?
今、僕が映画を作るという意味で言うと、やっぱり今の日本を表すものを作るべきだ、と。後生に残っていくものってやっぱりその時代を色濃く反映しているものだと思うんだよ。フランスなら愛というテーマがあり、アメリカなら「どう生きるか?」というテーマがあるけれども、日本はテーマが本当にないな…と。テーマ性のなさこそが、悩みたくても何を悩んでいいのかわからない日本人の辛さで、「豊かなはずなのに幸せになれない」でもいいし、どうしたら幸せになれるのかわからないという現代病なんじゃないか、と。それがすごくやりたかった。それに、映画は、『本当のフリした嘘』がすごく多いんだけど、逆をやってみたかった。『嘘のフリした本当の話』をね。

これから本作を観る方々に向けて、これは心しておいた方がいい(笑)ということは?
この映画を観ること自体、心しておいた方がいいよ。(笑)タイトルで勘違いして、愛と平和と理解の映画だと思って観た人たちは怒るだろうな〜。(笑)「タイトルの最後に?(はてな)マークついますよ〜」って、そこがポイントだね。(笑)でも、タイトルを問いかけにしてるのは、自分の映画の考え方でもあるんだけど、「映画を観終わって、楽しかった」のも重要だけれども、同時に何かしら考えるでもいいし、感じるでもいいし、なにか残したいという思いがある。映画を観て何も考えるものがないのは、僕の中では映画ではないし、表現物ではないと思っている。僕の目線も入っているけれども、その映画をどう捕らえるかって人によって様々だと思うの。それは、この映画が大嫌いでも大歓迎だし、お客さんに何かを感じてもらって、お客さんと一緒に完結したいね。

公開が楽しみですね。
はい。心して。(笑)
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